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<魏 229年> <蜀漢 229年> <呉 229年> 229年 太和三年(魏) 皇帝 曹叡(魏) 皇后 毛氏(明悼毛皇后・河內人) 三公 太傅:鍾繇 太尉:華歆(前司徒) 司徒:(空位) 司空:陳群(前鎮軍大將軍) 九卿 その他の要職 大司馬:(空位) 大将軍:曹真(前中軍大將軍) 驃騎大將軍:司馬懿(前撫軍大將軍) 地方官 主な事件 三年夏四月、元城王曹禮が薨ず《三国志魏書明帝紀》 六月癸卯、繁陽王の曹穆が薨ず《三国志魏書明帝紀》 六月戊申、高祖大長秋の曹騰を高皇帝に、夫人の吳氏を高皇后に追尊する《三国志魏書明帝紀》 秋七月、詔して「禮,王后無嗣,擇建支子以繼大宗,則當纂正統而奉公義,何得復顧私親哉!漢宣繼昭帝後,加悼考以皇號;哀帝以外藩援立,而董宏等稱引亡秦,惑誤時朝,既尊恭皇,立廟京都,又寵藩妾,使比長信,昭穆於前殿,並四位於東宮,僭差無度,人神弗祐,而非罪師丹忠正之諫,用致丁、傅焚如之禍.自是之後,相踵行之.昔魯文逆祀,罪由夏父;宋國非度,譏在華元.其令公卿有司,深以前世行事為戒.後嗣萬一有由諸侯入奉大統,則當明為人後之義;敢為佞邪導諛時君,妄建非正之號以干正統,謂考為皇,稱妣為后,則股肱大臣,誅之無赦.其書之金策,藏之宗廟,著於令典《三国志魏書明帝紀》 冬十月、平望觀を聽訟觀に改める。帝は常に「獄は天下の性命なり」と言っていた。大獄を断つたびに常に之を觀に臨んだ《三国志魏書明帝紀》 十一月、それまで洛陽の宗廟が完成せず鄴にあったのを、廟が完成したので太常の韓暨に節を持たせ高皇帝、太皇帝を迎えた。武帝、文帝神主は鄴にあった《三国志魏書明帝紀》 十二月己丑至、神主を廟に安んずるよう奉った《三国志魏書明帝紀》黃初四年に有司が二廟を立てるよう奏上している。太皇帝大長秋と文帝を一廟とし、特に武帝廟を立てて百世あっても毀さないとした。今高祖の神主無く、蓋以親盡毀也.すなわち魏の初め唯親廟を立て、四室を祀った。景初元年に至って始めて七廟之制を定めた。《三国志魏書明帝紀に引く裴松之注》 十二月癸卯、大月氏王の波調が奉獻の使者を遣わす。波調を親魏大月氏王と為す《三国志魏書明帝紀》 誕生者 死没者 曹禮:元城王 曹穆:繁陽王
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雑学:文士経営者寄り10人、190 福沢諭吉。5月11日。 んーと、天保5年生まれ、誕生日は割愛、中津藩士のちに旗本、明治元年までに37年でいいんだっけ…、そもそも明治元年に切り替えのことが特にないのでわかりにくい指標なんですが「だったらどこにするか」が決まらないのでないよりはマシ理論で。 基本的にこの辺のことを調べるとだいたい親御さんの身分を調べることが多かったので、ご当人に幕臣の身分があったのなにげに初めてかも。 ところで明治六大教育家の一人って初めて聞いたかも…、同時代評価ぽいな(ラインナップが森有礼とか大木高任とか新島襄とか)て、あ、憲章された6人か、ガチだ。 Wiki辞書のページが主に政治寄りなので見付けるのが大変だったんですが、慶応2年に刊行されたっていう『西洋事情』ですかね、庶民の近代史とか読んでると結構ちょくちょく出てくる感じです、そしてこれをパロディにして仮名垣魯文が西洋道中膝栗毛とか出して次に他所がパクり本を出したら「もういらない」って言われた感じの怒涛の流れを読まされました結構なインパクトでした。 で、『学問のすゝめ』で人気が決定打になったんだろうなー、正直私、近代風俗の本読むまでこっちで人気が出たんだとばっかり思ってたんだけどね。 上のはそもそもアメリカ行きー、欧州行きー、さらにアメリカ、みたいな中でその純粋なまとめのために出されたみたいなんですけどね。 学問のすすめはあれだ、立身出世しようぜ勉強しような! みたいな本ですね、そもそも中津藩でも学校作ってたぽいけどそのルーツを持つ慶応義塾を慶応4年に創立、明治15年には中立新聞である『時事新報』、そういやキング初号の表紙にも彼の言葉載ってたね(流用だけど)、ずっと人気なんじゃないかな。 福地源一郎。5月12日。 天保12年生まれ、天保ってあれだよね、自然主義の時代の頃に「天保じじいが死に絶えたから時代が急激に変わったんだよな」って言われてる説の時代だよね、明治元年との間は31年、長崎生まれで儒医の息子、外国奉行の職があったぽいですね。 ありゃ、藩士だったかと思ってましたがお医者さんの家系かー。 ぶっちゃけお医者さんの地位ってよくわからないんだよね、儒学者の家系かと思ってたんですが違ったっぽい、ただ「儒医」のせいか互換性みたいなものはあるぽいな。 あー、それで庶民の文化サロンに参加してたり、洋行に同行するみたいなどっちなの? みたいな立場なのかもなぁ…、や、私の知識だとあてずっぽうですけども、まあこの内容からこの推論程度なら間違ってても怒られることもないだろう。 慶応4年に『湖南新聞』を作ってますね、上の庶民仲間と。 で、この新聞が明治政府とガチでやらかしたものの木戸孝允に取りなされ、その後翻訳業に邁進して戯作や翻訳に精を出し、この時代に仮名垣魯文やら山々亭有人と交流、ああ、それで小新聞の存在よりも前に小新聞系の人脈があったのか…。 そして渋沢栄一のコネで伊藤博文と意気投合、アメリカに持って行かれ、その翌年から岩倉使節団にも随行、ああ、これがフランスで演劇と出会った契機ですね。 いやなんか大蔵省に入省してるぽいんだけどそれっぽい仕事が書いてないので、明治7年には政府系の『東京日日新聞』(明治5年創刊)に参加、て書いてあるけど、東京日日ってこうあの…立ち上げに湖南新聞の面子が、いて…(金座の人だったか)。 なんかこう、妙に評価が低いって聞くことがあるんですが、どっちなんだよどっちなんだよ?! みたいな意味で嫌われても仕方ない気もする…。 栗本鋤雲。5月13日。 そういや「明治三大文士」のお一人ですね、仮名垣魯文が含まれてる時点でだいぶ胡乱な気がして仕方ないけど、こちらのWiki辞書のページ見てたらその魯文さんに紹介されて『横浜毎日新聞』に参加した翌年には『郵便報知』の主筆ってなんかあったのかしら、てか、横浜毎日は東京日日に買収されてた気がしたんだけど間違えたかな…。 文政5年生まれ、明治元年との差は50年、結構なご年齢だったのね。 こちらは完全に官位のあるお医者さんですね、御典医の家系ぽい。 で、フランスには慶応3年のパリ万国博覧会の随行か(にゃ、福地源一郎の前に出て来たのでちょっとだけ聞いてます、その時点で結構な失敗になってたらしく…鋤雲さんのせいではないと思うけどねー、外交の一環として供された演劇がフランス語だったのでまあうん、理解出来るわけもなく、誰か寝たかな…)。 郵便報知の主筆時代に福沢諭吉さんを訪ね、彼の門下生を記者に加えたってのも地味に関係ありそうなので記憶しておこう、これが明治6年の段階か。 あれですね、新聞の一般人気の契機である「ブラックさんのすっぱ抜き記事」が明治7年の段階なので、業界にはわりと珍しいインテリだったんだろうな、この辺の出来事ものちに福沢さんが時事新報を作る時に影響してたかもしれないね。 いやなにしろ、大学の歴史を見てると定期的に人があぶれるので、定期的に一気に新規開拓が行われるからね…、慶応義塾を抱えて(早稲田と共に帝大よりも大学に相応しいって言われてた二強)る限り、絶対気になるだろうからなぁ。 幕臣としてはなかなかの地位にあるものの、明治政府の出仕は断ったためにキャリアは断絶、とはいえ反体制でもないですね、当時はそこそこの立場のはずなんだけど。 矢野龍渓。5月14日。 嘉永3年生まれ、明治元年との差は21年、佐野藩士、藩士の息子じゃなくてまだ藩士ですね、そろそろぎりぎりの年齢のような気もする。 明治4年に慶応義塾に入塾、うんわかるわかる、まだ間に合うよな…。 で、福沢さんの推薦で明治12年に大蔵省に入省し、明治14年には『報知新聞』買ってって大隈重信さんにお願いしてたのか…(誰の趣味かわからんけど、そう紹介していた人がいたのです、長いこと忘れられないけど誰の本かは忘れた、多分読書メーターには残ってるけど)。 てか、明治4年に入塾、明治6年に卒業したら講師ってのも回転早いよね。 そもそも私、この人のことは政治小説で一番有名な「浮城物語」で聞いていたんですが、国木田独歩の出版社のパトロンやっていた時期があったんですよね、で、大隈重信氏の回りで地味に見掛ける秘書だということが判明して撃沈。 独歩氏を見放したため没落したとかの説まで拝聴しました。 (多分その前段階である「独歩氏のことを見放したような態度が、これが彼の評価を下げた資質ではなかったか」は特に異論はないけど、実際の経歴を省みずにこれのみで没落を錬成するのはちょっとあまりに…、作家以外の経歴知らなかったのね。) まあ、文士としての評価はほどほどみたいなところは実際あるけども。 Wiki辞書のページには社会主義への興味などが載っているんですが、そちらの面子としての記憶はないかも、これだけ過去に活躍してる人が社会的に日陰のところに関わって目立たないのはちょっとなぁ。 とはいえ、大隈さんの下にいたなら好き嫌いはもともとなさそうね…。 仮名垣魯文。5月15日。 文政12年生まれ、文政生まれはあと栗本鋤雲さんですが、明治元年との差は43年、これまた結構なお歳だな、あれ待って、「晩年」って本当にかなりのお歳では…落ちぶれたっていうか、普通にお歳だったような気が…。 ところで魯文さんの江戸時代のお知り合いが激しく福地源一郎氏と被っていて、今挙動不審になってます、いや、栗本鋤雲さんと知り合いなほうがもうちょっと驚きが大きいかな、でもまあ明治に入れば新聞とか出版とかで顔合わせてても不思議はないか。 やっぱり福地さんだけだわ問題は、いやでも彼はお医者さんの家ぽいし…。 あ、魚屋さんの息子で作家目指したら出世するよと占いがあって弟子入りして、なんなら滝沢馬琴さんに狂歌を送られていたり、つーかあれだ、明治に入ってからというより幕末の時期にある程度の文才のある人たちが寄り集まって生きていた時期があったんだろうねこれ、福地さんなんかは『湖南新聞』のせいで追われてる風情だったけど。 そもそも明治初期に戯作は新聞に取って変わられたって表現は初めて見たんですが、これは戯作者から見たからこそって感じだなぁ。 で、福沢諭吉さんの本を…次から次へとパロディに。 今ではちゃんとしたパロディ扱いになってるぽいけど、数が多いよ、ちょっと前の時代だと容赦なくパクり扱いだからな! 無理もないよ何冊やってたんだよ!! 明治初期の「三条の教則」っていう娯楽産業の人たちを教育のために吸収するみたいな措置があったんですが(神祇官の系譜の省庁)、この時点でさっくりと応じ、だがしかし、前後で行動が変わった気はしません、そもそも戯作の人気が新聞に取られていたのならばただの臨時の職業では? と思え、無軌道がきっと彼の姿勢だと思う。 徳富蘇峰。5月16日。 文久3年生まれ、明治元年との差は9年! 思った以上に短いなと思いましたがこの人戦後まで生きてるんだからある意味で当然だよ、何回も言いましたが「ついうっかり弟の蘆花さんが夭逝なような気がする」が鉄板ねたです。 で、この人は『八重の桜』の同支社時代にどどーんと出て来たんですが。 てか、「教育勅語」の元田永孚さんの紹介で自宅を手に入れてるって、なんでや?? まああれ熊本藩士(彼の場合はお父さんが郷士っていう下級藩士)つながりってことで、いいのかしらよくわからない。 なんかこう、熊本バンドってたまーにエンカウントするんですが、えっらいことど派手に暴れ倒していたものの、なんとかならんのかってやたらと手を差し伸べられていたっぽいんだよな、よっぽど頭良い集団だったってことかしら。 まああちこちの学校を転々としたのち、上の自宅で私塾を開きまして、それからしばしのちに言論デビュー、板垣退助さんに最初に見せたいとかこの時点で田口卯吉さんの経済雑誌社から刊行だとか。 鳴り物入りにもほどがあります、あと系統があんまり統一がなく…。 で、論談デビューの翌年の明治20年に民友社と『国民之友』、明治22年には『国民新聞』が立ち上げられって、どこにお金があったんだろうか…。 流れ流れての果ての学生運動の辺りから国民新聞の辺りまでは「自由民権」寄りであり、社会主義に対しても好意的でその紹介者であるようなのですが、正直言って、人気出たあとが統一されていたからってそれ以前の経歴を見ると変節にショックを受けるとかはあんまりわからんかも、政界も、向いてそうだしなぁ…。 黒岩涙香。5月17日。 文久2年生まれ、おや、蘇峰さんとは1年違いか、明治元年との差は10年、こちらは土佐藩郷士の息子さん、こっちも学校を転々としたあと(近代の学校ではないけども)、自由民権運動に参加、いくつかの新聞を転々とし、『絵入自由新聞』に入社、そっから翻案小説に取り掛かったようですね。 てかあれだ、絵入自由新聞ってのが明治15年の刊行なので「国会開設決定後」のあと、名前からして自由民権系の小新聞でしょうね、そこで翻案小説を始めたというのは要するに板垣退助がフランスでヴィクトル・ユーゴ―から言われたという庶民教化のためで、その後、都新聞に連載の位置を移し、爆発的な人気が出まして。 その後、都新聞を退社し『万朝報』を作り、そこでも政治色の強い記事とゴシップと翻案小説を展開したということでそう特に破綻はないものの、Wiki辞書にはばらばらの案件に見えるのかかなり曖昧な感じにつながってますね。 正直、都新聞の立ち位置だけいまいちわからんけど、なにも他社に逃がしたことを馬鹿にされるほどの人気作家を逃したかったわけではないと思うので、涙香さんの意図をわかっていなかったって可能性もないでもないよな。 階級というか、真面目なものと娯楽性が高いものとを極端に別けるのは日本人らしいからねー(自由民権派はなにしろ頭首である板垣さんが上の方針なので、ここに関わった人たちの娯楽の扱い方はかなり柔軟、人類史的には明らかそっちのほうが正しいね)。 てか、下手しなくても「翻案」って涙香さんが主な代表者よねー、あれです、一旦本を読んで、しばらく瞑想してから一気に書き上げていたそうです。 アイディアだけ流用作品とも言う、鴎外さんが原作より面白いって褒めてたよ。 陸羯南。5月18日。 安政4年生まれ、明治元年との差は15年、微妙! あとあれ、茶坊主筆頭の息子さんで、長男だか次男だかわからんそうです、長男が亡くなってる可能性とかもありそうね適当だけど(いや友人の実体験、幼い時点で亡くなってるとどうしてもね)。 ぶっちゃけ茶坊主とか存在は知ってるけど立ち位置がさっぱりわかりませんが、教育を受けることが当然の家だったことは間違いないかな、広前藩出身なため東北人としての薩長との軋轢の感情があったみたいなことは書かれてますね。 まあ、地理を思い返して、あったような…、みたいなことを考えている体たらくなので書いてあることを鵜呑みにしただけだけど、なんとなく全体的な経歴からも確かにそれっぽいなと感じることはありますね。 国粋主義者たちと近い立場のはずなんだけど、正直、それらしいことは大隈重信の条約改正は見た目だけであるみたいな見解にしか感じないかも。 多分その見解は正しいんですけども、だからどうなのって感じるんだよね、それがまやかしであるからどうこうすべきって方向に行かないの? という感じ、近衛篤麿氏がちょこちょこ出てくるのも(近衛文麿のお父さん、近衛は皆似とる)、「不満を持った中庸人」みたいな雰囲気を醸し出しているというか。 ただ、そのため『日本』とか『日本及日本人』の穏当な雰囲気があったのかもなぁ、という気もしないでもないんだよな。 ところで明治25年以降の正岡子規の生活をずっと面倒を見たというのは「育てた」という表記にするのは微妙に違う気がするよWiki辞書、というか、どこで知り合ったのかしら、訪問を受けたとはあるんだけど、加藤恒忠の甥? 三宅雪嶺。5月19日。 万延元年生まれ、てか、幕末何個元号あるのよ真面目に…初めて見たよ、明治元年との差は12年、加賀藩の家老の家の儒医の息子だそうで…相変わらずお医者さんたちの地位がよくわからんな。 まあ、基本的に教育受けさせるだけの素地はあるって認識でいいのかな。 この方、どこで見たかというと文藝春秋関係の本を読んでいたところ、「財閥に紹介したのは三宅雪嶺だろうね」みたいなさらっとした言い分であり、三宅雪嶺ってあの? 明治末に見掛けた? 財界とどんなご関係が、てか、文藝春秋とはどんな関係で、みたいな気持ちが駆け巡ったものの、残念ながら雪嶺までは知ってんだろ的な言い方だったので以来全く音沙汰がない感じの。 ただ、知名度高い系の人として細いながらもお見掛けするので人違いってことも特にないだろうね、てか、この名前はさすがに間違えないよ、一度で覚えるし。 で、奥様が旧姓が田辺花圃さん、あれです、貧しい樋口一葉さんのことを唯一受け入れてくれた和歌の教室できらっきら光っていた先輩のお嬢さん。 あとあれ、「当世書生気質」を読んで女学生版の当世書生気質を書き上げたとのことでぶっちゃけて女性が書いた近代小説の最初だよね? と思ったらやっぱり最初でした、大正9年にはご夫婦で『女性日本人』という雑誌を立ち上げているとかで、やっぱりそんなに遠ざかってる気もしないんだけど…。 てか、政教社もだけど自由民権の上の国粋主義なのね、が、雪嶺さんなどが脱退したのちの『日本及日本人』は右傾化したとかで、有名な…なんかこう、なんか、言動がヤバげな人を載せて一気にそのイメージになったんだな、地味ちゃあ地味。 長谷川如是閑。5月20日。 明治8年生まれ、なんかこう、ここまで9人書いてきたあとだと異様なまでに「若いなぁ」と思いますしやっぱりバランス悪かったよなぁ、と思いましたが、まあまああれだ、だいたいの人がなんらかのメディアを主宰してるからまあいいか。 えーと、江戸の深川区の棟梁のお家で代々棒録を受けていたが(幕府からのお給料みたいなの、家に出る)、お父さんの時代からは材木商、うんうん、やっぱり文士って全体的に武士なような、そうでもないようなみたいな階層に多いね。 完全に違うの仮名垣魯文だけだったしなぁ、さすがに魚屋は違うし戯作者だしな。 こら武士だろってのは御典医のお家の栗本鋤雲さんくらいだし。 ある意味で庶民向けだろうがインテリであることが求められたって認識でいいのかな、ただ、完全に論客としてだと途中でWiki辞書の記述としては途切れるみたいなことになるみたいね、伝記なんかは普通に書いてあるもんなんだけどね。 ところでめっちゃ詳しい人によって書かれたようで、端的にまとまっている上に特に区切れがないですねWiki辞書のページ、そして綺麗な一片の曇りもない文士だなぁ…、『日本』の愛読者にして後に入社、方針が変わる社長の代に一斉退社。 のちに朝日新聞に入社、小説を書いていたところから「天声人語」を手掛けるようになり、マルクス主義の影響を受けて大正デモクラシーの時代にファシズム批判を展開したっていうあの、よく名前を見るわりに、どこそこでなにをしたという話を全く聞かなかった意味がなんとなくわかりました。 基本的に文士ぽい泥水啜ってる感が全くないわ…、そしてやっぱり『日本』無罪。 戦後は憲法に関わり、文化勲章その他を受け取り、名誉都民、順当。 (雑学:文士経営者寄り10人、190) 雑記:文或と近代もろもろ、212 雑記:文或と近代もろもろ、210 雑記:文或と近代もろもろ、208 雑記:文或と近代もろもろ、207 雑記:文或と近代もろもろ、206 雑記:文或と近代もろもろ、205 雑記:文或と近代もろもろ、204 雑記:文或と近代もろもろ、203 雑記:文或と近代もろもろ、202 雑記:文或と近代もろもろ、201 雑記:文或と近代もろもろ、200 雑記:文或と近代もろもろ、199 雑記:文或と近代もろもろ、198 雑記:文或と近代もろもろ、196 雑記:文或と近代もろもろ、194 雑記:文或と近代もろもろ、192 雑記:文或と近代もろもろ、189 雑記:文或と近代もろもろ、188 雑記:文或と近代もろもろ、187 雑記:文或と近代もろもろ、185 雑記:文或と近代もろもろ、184 雑記:文或と近代もろもろ、183 雑記:文或と近代もろもろ、182 雑記:文或と近代もろもろ、180 雑記:文或と近代もろもろ、179 雑記:文或と近代もろもろ、178 雑記:文或と近代もろもろ、176 雑記:文或と近代もろもろ、175 雑記:文或と近代もろもろ、174 雑記:文或と近代もろもろ、173 雑記:文或と近代もろもろ、172 雑記:文或と近代もろもろ、171 雑記:文或と近代もろもろ、170 雑記:文或と近代もろもろ、169 雑記:文或と近代もろもろ、168 雑記:文或と近代もろもろ、167 雑記:文或と近代もろもろ、166 雑記:文或と近代もろもろ、165 雑記:文或と近代もろもろ、164 雑記:文或と近代もろもろ、163 雑記:文或と近代もろもろ、162 雑記:文或と近代もろもろ、161 雑記:文或と近代もろもろ、160 雑記:文或と近代もろもろ、159 雑記:文或と近代もろもろ、158 雑記:文或と近代もろもろ、157 雑記:文或と近代もろもろ、156 雑記:文或と近代もろもろ、155 雑記:文或と近代もろもろ、154 雑記:文或と近代もろもろ、153 雑記:文或と近代もろもろ、152 雑記:文或と近代もろもろ、151 雑記:文或と近代もろもろ、150 雑記:文或と近代もろもろ、149 雑記:文或と近代もろもろ、148 雑記:文或と近代もろもろ、147 雑記:文或と近代もろもろ、146 雑記:文或と近代もろもろ、145 雑記:文或と近代もろもろ、144 雑記:文或と近代もろもろ、143 雑記:文或と近代もろもろ、142 雑記:文或と近代もろもろ、141 雑記:文或と近代もろもろ、140 雑学:近代有力め新聞社10社、181 雑学:近代小説掲載雑誌覚え書、186 雑学:明治の歌舞伎事情、195 雑学:明治の新聞発展事情、177 雑学:文士経営者寄り10人、190 雑学:お江戸の歌舞伎事情。197 文芸:文アル登場作家、その4。211 文芸:文アル登場作家、その3。209 文芸:文アル登場作家、その2。193
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リプレイ動画三国志の世界へようこそ! ここでは管理人カメラマンことにんべんがプレイした動画を まとめていきたいと想いまる。
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<魏 254年> <蜀漢 254年> <呉 254年> 254年 嘉平六年→正元元年(魏) 皇帝 曹芳(魏斉王)→曹髦(魏高貴鄉公) 皇后 張氏→(廃位)→王氏→(廃位) 皇太子 三公 太傅:(空位) 太尉:司馬孚(前司空) 司徒:高柔(前司空) 司空:鄭沖(前光祿勳) 九卿 録尚書事:司馬師(大将軍) 光祿勳: その他の要職 大将軍:司馬師(前撫軍大將軍) 車騎將軍:郭淮(前征西將軍) 驃騎將軍:? 衛将軍: 地方官 雍州刺史:陳泰 主な事件 六年春二月己丑、鎮東將軍の母*丘儉は、諸葛恪が合肥新城を囲んだ折、城中の士の劉整、鄭像に功があったと上言した。詔して追って劉整、鄭像に關中侯の爵を賜い、各士の名を刻み、子に爵を継がせよ。《三国志魏書三少帝紀》 二月庚戌、中書令の李豐は皇后の父で光祿大夫の張緝等と謀り、大臣を廢易して、太常の夏侯玄を大將軍と為さんとする。事は発覚し、諸所で関連したもの皆誅に伏す《三国志魏書三少帝紀》 二月辛亥、大赦《三国志魏書三少帝紀》 三月、皇后の張氏を廃す《三国志魏書三少帝紀》 夏四月、皇后に王氏を立てる。大赦。《三国志魏書三少帝紀》 五月、皇后の父である奉車都尉の王夔を廣明鄉侯に封じ、光祿大夫、特進の位を授ける。妻の田氏は宣陽鄉君と為す《三国志魏書三少帝紀》 秋九月、大將軍の司馬師は廢帝を謀り、皇太后に相談する《三国志魏書三少帝紀》 九月甲戌、太后は令に曰わく、「皇帝の芳は年が長じても萬機に親しまず、耽淫內寵・沈漫女德・日延倡優・縱其醜謔である。天意に適わない。宗廟に奉って、太尉の高柔に兼ねさせて策を奉じ、宗廟に告げ、芳を齊国に歸藩させ、皇位を譲らせる」即日別宮に移る。年は二十三。使者は節を持って送る。齊王宮を河內の重門に営み、制度は皆藩國の禮に準じた。《三国志魏書三少帝紀》 九月丁丑、令して曰わく「東海王曹霖は、高祖文皇帝の子である。高貴鄉公の曹髦は大成之量あり、明皇帝の跡継ぎと為す《三国志魏書三少帝紀》司馬師はまた永寧宮に、「大宗は跡継ぎが無く、分家の中から賢者を選ぶべきです。東海定王の子である高貴鄉公は文皇帝の孫で正統なる血統であり、烈祖明皇帝の後を継ぐに問題ありません。臣は公を洛陽宮に徵することを望みます」と奏上し、可とされた。中護軍の司馬望、兼太常で河南尹の肅は節を持ち、少府の褒、尚書の亮、侍中の表等と法駕を奉じて、公を元城に迎えに行った。《三国志魏書三少帝紀に引く魏書》晉の受禪後、齊王を封じて邵陵縣公と為し、年四十三、泰始十年に薨ず。厲公と諡する《三国志魏書三少帝紀に引く魏世譜》 十月己丑、曹髦は玄武館に至り、臣下は舍前殿にお出ましになるのを請うた。曹髦は先帝がいた所として避けて西廂に止まる。臣下は又法駕をもって迎えることを請うたが聽かず。《三国志魏書三少帝紀》 庚寅、曹髦は洛陽に入る。臣下は西掖門の南で拝し迎える。曹髦は輿を降りて答拜した。儐者が「儀礼によれば拝礼しないものです」と言った所、公は「私は人臣です」と答え、拝礼した。止車門で輿を降りると左右の者が「輿に乗ったままお入りください」というと、公は「私は皇太后様に徵されただけでまだどうなるか分からないのだ」と答えた。步いて太極東堂に至り、太后に会った。即日皇帝に即位し太極前殿に現れた。百僚陪位者が迎えた。詔して曰わく「昔、三祖は神のような武と聖德によって天命に応じて禅譲を受け、齊王が皇位を嗣いだ。だが行いを律することができず、皇太后は社稷の重責を憚り、宰輔の謀を受け入れ、皇位を替えるに至った。私は大命を一身に受け、身も細る思いだ。祖宗の大訓を守り継ぐことができるか畏れる。今公卿士は股肱として輔佐し、四方征鎮はその力を発揮し、皆德を積み功を挙げよ。帝室に忠勤たれ。先祖先父以来の有德之臣よ、左右にある者よ、皇家を守れよ」大赦。改元する。乘る輿、服御、後宮の用度を減じる。また尚方御府百工を罷めさせ、技巧靡麗や無益の物は無くした。《三国志魏書三少帝紀》 正元元年冬十月壬辰、侍中に節を持たせて四方に分けて遣わし、風俗を観、士民を労り、職の無い者を調べさせた《三国志魏書三少帝紀》 癸巳、大將軍の司馬師に黃鉞を与え、入朝不趨、奏事不名、劍履上殿の権限を与えた。《三国志魏書三少帝紀》 戊戌、黃龍が鄴の井戸の中に見られた《三国志魏書三少帝紀》 甲辰、有司に命じて今回の廢立において定策之功を論じさせ、封爵、增邑、進位を行った。各々格差があった《三国志魏書三少帝紀》 誕生者 死没者
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作者:吉川英治 初版:2000年X月X日 感想:南蛮を制圧した孔明は、最大のライバル司馬懿との戦いに望む・・!そして孔明の運命はいかに 【1回目】 期間:2010年4月19日(日)~5月2日(日) 日数: 三国志 吉川英治 歴史
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